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カテゴリ:催し案内 音楽

タイトル わかってください!手伝ってください!でもその前に
ペンネーム 辛子色の季節(40代 男性 光覚)

レポートの要旨です。

 こんにちは。辛子色の季節です。
視覚障害者として生活している私にとって、同じ障害を持つ仲間の存在はとても貴重ですし、
それは今後も変わらないと思います。
 そこで今回は、視覚障害者と接していて気になることを、あえて書いてみようと思いました。
そんなことを書ける分際ではないことも理解しているつもりですし、
自らを振り返って自戒する部分も当然あります。
また、あくまでも私の主観ですので、実は偏った考え方だったりすることがあるかもしれません。
でも、私も含めて、視覚障害者みんなで考えていく課題かな?と思いましたので、
最近気になることの幾つかを書かせていただくことにしました。

ここから本文です

 先日偶然、中村雅俊さんの「辛子色の季節」というかなり古い曲を聞いて、歌詞がけっこう気に入りました。
歌詞の中にあるように「青春を想い出話」にするような年齢になってきた証拠かな?と思うと
ちょっと落ち込みますが、皆さんもよかったら聴いてみてください。
 今回は、視覚障害者と接していて気になることを、あえて書いてみようと思います。
まずは、様々な場面で配布される資料の取扱いについてです。
今年の4月に、障害者差別解消法が施行されました。
それに伴って頻繁に見聞きするようになった言葉が、「合理的配慮」です。
合理的配慮とは、私たち障害者の人権が障害のない人と同じように保障され、社会生
活が平等に行えるよう、それぞれの障害の特性や困難な内容に合わせて行う配慮のことです。
視覚障害者については、点字や拡大文字による資料提供、代読・代筆などの配慮をはじめ、
名乗ってから話しかけるなどの事例も挙げられています。
今後、それらの配慮が様々な場面で実施されることは、私たちにとって大変うれしいことです。
 しかし、その一方で合理的配慮が行われることが定着すれば、それに伴って社会的責任を果たすということが必要になってくることも、理解しておかなければならないと最近つくづく感じるようになりました。
たとえば、私が出席しているある会議では、資料が予めメールで送られてきて、点字でも提供されます。
以前であれば、こちらも資料の内容がわからないので発言のしようがないですし、
会議の主催者も資料が提供できていないという後ろめたさから、あえて発言を求めてこなかったように感じます。
しかし、合理的配慮が行われている中では、主催者は堂々と発言を求めてきますし、
こちらもそれにしっかりと答えていく必要があります。
「資料を読んでいないので」という理由は通用しないばかりか、
費用をかけて作成された資料、
合理的配慮を無視した行動ととらえられてしまうのではないでしょうか。
そこで、以前にもまして、前もって資料を読み、当日急に発言を求められても対応で
きるよう、準備するようになりました。
以前なら「できなかった、知らなかった」と言っても通用したかもしれないことが、
「合理的配慮はするので、きちんとやってください」と言われることが増えていきそうな気がします。
それは当然のことなので、合理的配慮の実施を求めながら、社会参加していくことが大切に思います。
 次に、点字の資料についてのエピソードを二つ紹介します。
晴眼者の友達から聞いた話では、会議や大会に参加した時に、
会場に資料がたくさん置き忘れられているのを見るそうです。
「忘れた」のならしかたのないことですが、
たくさんあるとなると、「わざと」持ち帰らなかった、そんな方も多いのでしょう。
特に点字の場合はかさばりますから、持ち帰りたくない気持ちになるのかもしれません。
でも、主催者としては、せっかく作った資料がたくさん放置されていたら、あまりいい気はしないと思いますし、
墨字より費用がかかる点字の資料なら、なおさら残念に感じるのではないでしょうか。
今後、点字での資料提供が進み、それを民間レベルにまで定着させるためにも、
資料は持ち帰るべきかと思います。
ちなみに私はとりあえず渡された読み物は一読しないと捨てられない性格です。
自宅に持ち帰ってまだ読めていない点字の資料がたくさんあり、その片づけにいつも悩まされています。
 ここまで偉そうなことを書いてしまいましたが、私も一度大失敗をしました。
何かの大会に行った帰りに泊まった温泉旅館で、点字の資料を置き忘れてきました。
それは、懇親会のメニューだったので、資料としての役割は終えており、すでに不要となったものでした。
すると翌日、自宅の電話に、「○○旅館ですが、点字の書かれた紙をお忘れですが、お送りしましょうか」と
留守番メッセージが入っていました。
点字資料は墨字が併記されていない限り、旅館の方にはどんなことが書かれているのかわからないのですから、
もしかして大切な物なのでは?と想われたのでしょう。
早速電話をして、不要である旨とお気遣いへの感謝の気持ちを伝えました。
それ以後、宿泊先に点字で書かれた物は置いて帰らないように気を付けています。

 さらに、街中で声掛けをして下さる晴眼者の方への対応について考えてみました。
実は私自身感謝の気持ちは伝えるものの、それから発展して
交流が生まれるようなところまではなかなか進みません。
その場限りのごあいさつで終わってしまうことが多いのです。
知り合いの中には、感謝の気持ちをとっさに伝えるためのカードを作って渡しておられる方もあり、
声をかけていただいたことがきっかけで、交流を続けている方もあると聞きました。
うらやましい限りです。
なかなか私はそこまではできませんが、
一瞬であっても、感謝の気持ちを伝えることだけは忘れないようにしたいと思っています。
 声をかけていただく方の中には、サポート方法が不適切な場合もあります。
たとえば、白杖の先端をいきなり持たれたり、腕を引っ張られたり、中には大きな人
(外国の方だったと思います)にぎゅっと肩を掴まれたこともありました。
さすがに急に肩を掴まれると、一瞬どきっとしました。
サポートが不適切であったとしても、まずは感謝の気持ちを述べた上で、適切なサポ
ート方法を伝えることが大切だと思います。
 私もまだ学生の頃、サポートが不適切だった方を責めてしまった記憶があります。
その方はとても心の広い方で、その後も交流が続きました。
実の所、本当は少しショックだったようです。
私はとても反省しました。
やはり、声をかけていただいた方には感謝の気持ちを伝え、たまたま自分にはサポートが不要な場合でも、
別の視覚障害者を見かけた際に声をかけていただけるように、私たちみんなで心がけていきたいものです。
時折、「こんなサポートならいらない」とか、「視覚障害者のことをわかっていない」など、
かなりきつい口調で声をかけてくれた方を責めている様子を目にすることがあります。
その度に私は、申し訳ない気持ちと悲しい気持ちの入り混じったとても複雑な気分になります。
 最後に、身だしなみについて書いてみます。
私は自分の見栄えはチェックできなくても、おしゃれとは異なり、
恥ずかしくないような服装や身だしなみは必要だと思います。
ある意味、醜くなく、きちんとした一人の人間として見てもらうために必要なことが、
身だしなみではないでしょうか。
その意味では、髪の毛や肌を清潔に保つ、衣服にしみや極端なしわがない、服が破れたり色あせたりしていない、
変な臭いがしないといったことは、視覚障害者も心がけておくことが必要です。
 そして、意外に視覚障害者が気づきにくいことは、鼻毛の処理だと思います。
私も以前はあまり意識していなかったのですが、40歳代に突入してから急に鼻毛が
伸びやすくなったようです。
一度指摘されたことがあり、それからかなり意識するようになりました。
普通の人は1か月に1回で十分だそうですが、私は二週間に1回くらい必要なようです。
鼻毛は毛抜きで抜くと傷口ができるので、
毛抜きは使わずに切りすぎないようにカットするのが良いそうです。
 ここまで、自分の反省や自戒も含めて書いてきましたが、私たちが声をかけてもらったり、
合理的配慮を含む様々なサポートを得ていく上では、私たち自身の行動やマナーがとても大切だと感じます。
わかってください!手伝ってください!でもその前に、自分たちが気づいたり、
思い返したりする時間を大切にしていきたいです。
そして、立ち止まり考えたことを仲間どうしでフランクに語り合い、
そこから視覚障害者自身の課題が発見できればと想います。
市民の方への啓発と共に、仲間みんなで取り組んでいきたいな!、
そう思う今日この頃です。

編集後記
 あえて言いにくいことを意見、提案してもらいましたが、
配慮される側として見られることがほとんどの視覚障害者を、配慮する側として見て考えることも大切です。
仲間を大切に思うと、親しく楽しい中に、辛子のようなピリッとした意見も出ることになります。
それによっておいしさが引き立ちますね、本当に。

-- このメールの内容は以上です。

発行:   京都府視覚障害者協会
発行日:  2016年7月8日

☆どうもありがとうございました。